代表取締役社長 塩川達也
1954年 塩川明光の長男として静岡市天王町(現在の葵区天王町)に生まれました。
父の明光(アキミツ)は当時ガラスと鏡の加工工場を立ち上げ、静岡の地場産業である家具屋にガラスや鏡の納品を始めました。
当時は社員5人程の小さな工場ですが、母も工場でガラスの加工を手伝い、夕方まで作業をしていましたので、私は小学校から工場に帰り、工場から母と一緒に家に帰る毎日でした。
私も小学校の高学年になると、ガラスの洗浄を手伝いましたが、嫌々やるのでよく割り、父からよく怒られました。ガラスは水を使いながら加工する為に、指が水ぶくれになります。特に冬は霜焼けになり、指だけ大魔人のように膨れます。加工職人さんは指先に力を入れ鏡加工をする為に指が太くなり、霜焼けと指太で人前では指を隠すようになってしまいます。そんな姿を目にしているので、子供心に将来こんな仕事やりたくないと思っていました。中学、高校時代も夏休みは工場で手伝いをさせられ、ガラスの切断や洗浄など、父からの容赦ない要求に明け暮れる毎日で、早く家を出たいと思っていました。
その後東京で大学生活を送りますが、中学高校の反動か、全く大学に行かず麻雀ばかりの毎日で、単位不足となり留年になりました。留年が決まった時に、両親に報告しましたが、卒業を楽しみにしていた両親にとっては相当なショックだったようです。本当にがっかりしている両親の姿をみて、こんな迷惑を掛けて申し訳なかったと、胸が張り裂けそうだったのを覚えています。
ガラス職人への道のり
まさにその時ガラス屋を継ごうと決めました。卒業後兵庫県のガラス工場に3年の予定で勤め始めましたが、父の具合が悪くなり1年で静岡に帰ってきました。その時の経営状態は、お客様は激減、売上は半分、まさに最悪状態でした。
そこから、父と2人三脚で、品質の安定と納期厳守を再構築し、私もガラス職人さんと一緒になりガラスの加工を始めました。指先に力を入れ手加工するので、指は膨れ太くなるし、水を使いながら加工をするので冬は冷たいし、ガラスの触感が大切なので手袋はできないし、本当に過酷な仕事だなと思いながらも、だんだん上達し面取りが上手くなってくると次第に面白くなり、自信が持てるようになってきました。
40年前は鏡の変形の切断は裏の銀引きの面から行いました。鉄筆で裏側に線を入れその線に沿ってダイヤモンドが先に付いたガラス切りで切断します。塩川光明堂でもその切断が出来るのは私くらいでしょう。現在ではほとんどCNCで切断します。ガラスと鏡の性質を肌で感じられるようになり、鏡は生きていると判ったのはその頃かなと思います。
「命を吹き込め一品に、売ろう心と真実を」
現在、鏡ガラスの加工業と完成品の販売と2本柱で営業をしておりますが、会社のスローガン「命を吹き込め一品に、売ろう心と真実を」の精神で社員一丸となり、父の残した創業の精神を忘れず、お客様に喜んで戴ける様な品質と納期を念頭にもの作りに励むつもりです。